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残された時間で「遺す」ブログ

同時化学放射線療法⑤治療効果と副作用まとめ

Aug 2021 to Sep 2021


 

放射線治療効果と副作用に関する時系列まとめ

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①照射1〜5回目

前日に入院。

 

抗がん剤1クール目

ひどい副作用はなく、2-3日吐き気がする程度で済んだ。

食事もそこそこ食べれた。

 

放射線の副作用はまだ出現しておらず身体的には元気な状態。

 

退院したらごちそうをたくさん作る!と決意し、クラシルのレシピ動画を延々見ながら1ヶ月分の献立を立てるなどする。

 

5回目の夜中に腹痛からの迷走神経反射で失神する↓

 

これ以降、メンタルが極度に低下する。

 

②照射6〜8回目

放射線科初回の診察。

まだ治療をはじめて1週間なのでそんなに大きな変化はないとしながらも2cm→1.5cmと腫瘍が小さくなっており、この先の治療に希望を見出す。

 

抗がん剤2クール目

前回よりも吐き気がひどく数日はあまり食事がとれなかった。

 

放射線の副作用はまだ出現せず。

淡々と照射を受ける日々。

 

Weeklyの抗がん剤が思ったよりきつくて、最後まで完走できるか不安で病む。

緩和ケア医および看護師さんに来てもらうようになる↓

 

③照射9回目

突如、放射線の副作用によりひどい下痢になる。

10分間隔くらいでくるのでトイレから離れられない。

はじめ、下痢止めとしてビオフェルミン的なもの(整腸剤)をもらうもまったく効かない。

次にロペラミド2錠で怖いくらいにピタッと止まる。

 

④照射10〜18回目

放射線科の診察。

前回とほぼ大きさ変わらず。

薄皮が1枚はがれるように少しだけ小さくなったと繊細な表現で伝えられる。

前週の5mm縮小がずっと続いていくもんだと思っていたため結果にショックを受ける。

 

抗がん剤3-4クール目

夕食を一口食べた瞬間、猛烈な吐き気が襲ってきた。以降、食事が取れない日々が続く。

食事を見るのもだめになったので配膳を止めてもらう。

数日経つとちらし寿司なら食べれる気がしたので売店で買ったちらし寿司1/3でなんとか食い繋ぐ日々。

水分もあまりとれず、照射1時間前の200ml水分摂取ですらストレスになる。毎回30分かけてちびちび飲んでいた。

 

下痢はロペラミドのおかげで止まっていた。

むしろ効きすぎたのか、あるいは抗がん剤の影響か今度は便秘になってしまい下剤を飲むようになる。そうすると今度は下痢になり…

このあたりから便秘→下剤→下痢→下痢止めの無限ループにハマる。

 

常に吐き気がある状態ではあったが、あつ森ができる程度には元気で、子どもたちと島で花火をしたりなどできたのは良かった。

さらに暇つぶしにドラクエXをダウンロードしてみた(ダウンロードに半日かかった)が、こちらは酔うし、イカのおばけみたいなボスが倒せず途中から全然手付かずになってしまった。

 

この頃、リハビリを開始する↓

 

⑤照射19〜20回目

抗がん剤5クール目(スキップ)

体調悪すぎてスキップした。もはや1週間では副作用から回復できない身体になっていた。

スキップを決断するまで3日前ぐらいからウジウジ悩み、放射線の効果が十分出ないんじゃないかとか先生に何て言われるか…とか今考えると何であんなにウジウジ悩んでいたのか「嫌ならやらなきゃいい」とあの時の私に言ってあげたい。

その全責任は他でもない自身の命でとることになるのだから、先生や看護師さんの反応など気にする必要はまったくないのだと。

 

ちなみにスキップに関しての反応は

「しんどそうだし止めておきましょう。放射線を続けることが最優先だし、そもそも食事できてないなら抗がん剤できないよ」

と主治医は何の問題もなかった。

問題あったのは看護師さんだった。

「今日、抗がん剤やらないの?

(なんで?採血結果は問題ないよね?)」

「次はできるようにし な い と ね」

よかれと思って言ってくれているのかもしれないが、正直強要されてるようにしか聞こえなかった。これで次回は逃れられない…ジリジリと追い込まれているような気がした。

 

⑥照射21〜24回目

放射線科の診察。

相変わらず大きさに変化なし。

依然として1.5cm程度の腫瘍が残存。

先生からラルスが本番だからと声を掛けられ、私はそれを信じるしかなかった。

 

抗がん剤5回目(リベンジ)

前回スキップのせいか、体調はかなり回復しており最後の抗がん剤を投与することにした。

1クール目の時ぐらいの軽い副作用で、食事もそこそことれた。やはり回復しきらないうちに次々抗がん剤を入れると副作用も大きく出るんだな、などと思うなどした。

 

お腹は引き続き便秘→下痢の繰り返し。

(退院後、今もずっとこの感じ)

 

鼠蹊部の皮膚が黒くなりペリペリ剥けてきた。

痛みなどはまったくない。

色素沈着はそりゃするんだろうがもはやそんなことはどうでもよい。

 

⑦照射25回目

最後の照射。

私としては感慨深かったが、最終日のイベントなどは特になくいつも通りの治療だった。

(ラジオ体操の出席カードのようなものに毎日スタンプを押してもらって最終日にお祝い?してくれる病院に憧れがあったw)

 

一刻も早く家に帰りたかったので、夕方の照射を終えその日のうちに退院した。

手術のときの退院↓とは違い

 

またリハビリ↓の効果もあったのか

 

すたすた歩けて、帰りは王将で夕飯を買って帰った気がするw

 

 

同時化学放射線療法④救いのリハビリ

August 2021


 

「息抜きにどう?」と緩和ケア認定看護師さんに勧められるがままに始まったリハビリだったが、これが思いがけず入院生活の中で大きな支えとなってくれた。

 

正直、始めはそんなに乗り気じゃなくて

でも他にやることもないし、断る理由もない。

身体を動かすのは嫌いじゃないし

やってみてもいいかな…。

程度の消極的な気持ちで始めたのだが、いつの間にかこの時間を心待ちにしている自分がいた。

 

リハビリでどんなことをやったかというと

まずは私がどこまで動けるかのチェック、

・立つ

・片足で立つ

・歩く

レーニングルームに移動して

・ストレッチいろいろ

・腕立て、腹筋、背筋

・エアロバイク

 

など、初回は体力測定的なことをしてもらった。

前半部分はまぁ普通にできるねとなり

後半のメニューは体力を落とさないために負荷を調整しながら続けていきましょう!ということになった。

 

リハビリは平日毎日で1回約1時間。

最初のうちは余裕でメニューをこなせていた私だったが、治療が進むにつれて副作用でリハビリどころではなくなってくる。

 

まずトレーニングルーム(遠い)まで辿り着けなくなる

次に廊下での歩行練習もしんどくなり

終いにはイスに座ることすら厳しくなる

 

このようにどんどん弱っていってしまったのだが、先生は毎日部屋に来てくれて動けない私にマッサージをしてくれたり、隙を見て(?)少しだけ!ストレッチだけでも!と若干スパルタ気味にリハビリを続けてくれた。

 

そして体調の良さそうな日があれば

歩行訓練をしたり、階段昇降の練習をしたり

リハビリがお休みになる土日に向けての宿題(というかノルマ)が課されたりした。

 

当たり前ではあるが、病院内において医師や看護師をはじめとする病院スタッフと「患者」との間には

助ける人 >>>> 助けられる人

という厳然たる力関係が存在する。

 

病院内で患者は庇護されるべき存在であり、何も期待されず、治療のベルトコンベアーの上をただひたすらに流されていく、そんな態度が求められているように思えた。

 

余計な手出しは無用、自分でできることでも先回りして誰かがやってくれる、あるいは私がやると大げさに感謝される。

そんな「やさしさ」は私に、より一層「何もできない自分」を突きつけることとなり無力感と申し訳なさでいっぱいになっていたあの頃。

 

いつだって「助ける側」だと思っていた傲慢な私は自分のことすら満足にできなくなり、アイデンティティは崩壊寸前だった。

 

そんな中、リハビリの時間は

唯一「以前の自分を取り戻せる時間」

だったように思う。

 

まず、先生が病人扱いしてくれないw

基本的にスパルタで(病人目線で)高めの目標が設定されるし、こちらから根をあげない限りトレーニングは続行される。

 

今までぬるま湯に浸かりきっていたため最初は面食らってしまうも、それが病気じゃない元の世界に戻ったような気がしてとても心地がよかった。

私はまだまだやれる!!という変な自信にもつながっていた。

 

それから、この先生は治療がどうだとかあまり知らない(たぶん興味ないw)のでそれがとても気楽だった。

 

これが看護師さんだと「どこがどういう風にしんどい?」と聞き取りが始まるし

下手すると「そんな副作用ないはずだけど」と症状を否定されることすらあり得る。

 

医師の場合であれば「薬の調整をしましょう」あるいは「様子を見ましょう(打つ手がない)」となるかもしれない。

 

それは何も間違ってはいないのだけど

「あーそうなんだ。しんどいねぇ。」

「こんな感じの患者さんもいたよ」

「じゃもうちょっといける?(スパルタ)」

と、ただグチをグチとして明るく受け止めてくれるこの先生はとてもありがたい存在だった。

 

だんだん私の中でママ友のような感覚になっていった先生とは、仕事のことや子どものことなどマッサージをしてもらいながらたくさん話しをした。

そんな時間は退屈で刺激のない入院生活の中でとても楽しいものとなり、閉ざされた病院の中で唯一外界と繋がっている場所であるかのように感じられた。

 

そしてまた、リハビリの様子を報告すると家族はとても喜んでくれそれが何よりうれしかったことを覚えている。

 

それまでは鬱々とした内容か、はたまた突然ラーメンの話しをLINEに連投したり↓

 

mimimimi365.hatenablog.com

mimimimi365.hatenablog.com

情緒が安定しない私だったので、リハビリで元気そうな姿に心底安堵したのだろうと思うw

 

体力的にはきっとなくても問題なかったであろうリハビリも私にとってはこの入院生活を乗り切るためにはなくてはならないものだった。

 

あのとき勧めてくれた看護師さんと

ママ友リハビリ先生には本当に感謝している。

 

同時化学放射線療法③緩和ケアの介入

August 2021


 

前の記事では、淡々と書いた真夜中の失神事件だったが

 

こちら↓

mimimimi365.hatenablog.com

 

実際は倒れたときの恐怖が頭から離れず、治療の副作用もあいまって

 

もう治療なんて続けられない

早く帰りたい

 

と泣き暮らしていた。

 

また、

もう治らないんじゃないか。

治らないのに治療する意味ってなんだろう?

 

と闇落ちしていたのもこの頃で

SNSを見るとみんなつらくても前向きに頑張っているし

治療をやめたいなんて弱音を吐いているのは私くらいで

応援してくれるコメントに

「つらいけど前向きにがんばります!」と偽りの気持ちを返信しながら

心はどんどん追い詰められていった。

 

看護師さんに

みんなどんなモチベーションでこの治療を乗り越えているのか。

「治すぞ」と思ってやっているんだろうけど私はどうしてもそう思えない。

治療は続けたいが心がついていかない。

 

というような話をすると

 

うーん。

治すとかじゃなくて「子どもが〇〇するまでは生きる」

とかってがんばる人が多いよ。

だから「3年は生きる!」みたいに考えたらいいんじゃない?

 

(意訳)

そもそも術後すぐに再発したあなたが

「治す」なんておこがましい。

もっと現実を見なさい。

 

3年て余命か…?

 

さらにメンタル悪化した私だったが、

この看護師さんはそんな私を緩和

ケアにつなげてくれた。

 

しかしせっかくのその配慮も、

この病院の緩和ケア医師(女性)と相性がよくなったのか

メンタルがケアされることはなかった。

(そもそもそういう場所じゃない??)

 

その医師は病室に来ると決まって「イスを借りてもいいかな?」と言って

私の斜め前あたりに折りたたみイスを拡げる。

それが私には「あなたの話を親身に聞こうとしていますよ」

のポーズに見えてあまり好きではなかった。

 

そして私のつらい気持ちをはじめ、家族のこと、仕事のことなど

確かに話はよく聞いてくれた。一切口をはさむことなく。

否定も肯定せず、ただ聞いているだけ。

私が話を止めると沈黙が訪れ、部屋に重苦しい空気が流れる。

 

緩和ケアってもっとつらい気持ちに寄り添ってくれたり

時には励ましてくれたりするものだと思っていた。

 

今の状況は、変なプレッシャーの中、ただ私が一方的に話しているだけ。

そして最後に薬の調整をして終わる。

もちろん病気や症状に対する一般的な質問には答えてくれるのだが、

私個人の問題や気持ちをケアしてくれることはほとんどなかったように思う。

 

しかし、他の患者さんに対してはまったく違う素振りで

明るく笑いあったり、元気に励ましたりされていたので

ひょっとして私の問題なんだろうか…?

 

医師とはうまくいかなかったが、

緩和ケア認定看護師さんはとても支えになってくれた。

 

病室で一人悶々としていた私を

屋上庭園(それまで存在を知らなかった)に連れ出してくれたり、

気分転換になるから!

とリハビリを受けられるよう主治医に進言してくれたりした。

 

リハビリは通常、入院中寝たきりで身体機能が落ちるリスクがある高齢者や

術後の機能回復が必要な患者が受けるもので、私はふつう適応外だし

同じ治療を受けている患者さんでリハビリしている人を見たことがないw

主治医も、え?と思っただろうが「リハビリやりましょう!!!」と

無駄に元気よくGoが出た。

 

あとは「凄麺」(これもこのときはじめて知った)。

これで盛り上がったのも懐かしい思い出。

なんでもこのメーカーの麺の技術がすごいらしく、

この技術によって全国各地のご当地ラーメンがカップ麺で再現されている。(たぶん)

看護師さんには何県の〇〇がおすすめ!などいろいろ教えてもらった。

それに影響されて、凄麺の凄さ?を家族にLINEでアピールしたりしたがこちらと向こうの温度差が大きく大して伝わらなかったようだw

(代わりに元気そうだということが伝わってよかったw)

 

凄麺、今でもたまにスーパーで見かけると

あのときのつらかった気持ちや

そんな中にもあったほんの少しの楽しい時間や希望など

いろいろな感情が入り乱れて胸がしめつけられる思いがする。

 

ちなみにそんな思い出の凄麺だが、実はまだ一度も食べたことないw

 

 

同時化学放射線療法②真夜中の失神事件

Augst 2021


 

放射線治療が始まり1週間ほど経過した頃。

まだ大きな副作用もなく

毎日5分の照射以外は何もすることがない

ただひたすらにヒマな入院生活を送っていた。

私はどちらかというとインドア派でネットさえあれば割と満足なタイプなのでこの入院生活もそこまで悪くないなと思い始めていた。

 

そんなある日の深夜。

ん?おなか痛い…

という感覚で目が覚める。

そんなにひどい痛みじゃなかったので、また眠りに入ろうとするもお腹を雑巾絞りされているような痛みがどんどん大きくなりベッドから起きてトイレに向かった。

 

私は個室に入院していたが、この病院は個室でも部屋の中にトイレがない。

(もちろん大部屋にもない)

部屋を出てトイレに行くが何も出ず、痛みを堪えながらまた部屋に戻ろうとしたとき急に目の前がぐるんとまわって一瞬意識が途切れた。

次に気がついた時はトイレ前の廊下で仰向けに倒れており、のりでもついてるのかというくらい身体が地面にびっちりくっついて身動きがとれない状態だった。

 

自分では起き上がれそうもないがまわりには誰もいない。

仰向けに倒れたまま、為す術もなくしばらく待っていると遠くの方に巡回中の看護師さん2人が見えた。

 

すみませ〜…ん…

大声を出したつもりがその声は驚くほど弱々しく、気づいてもらえるまで何度も呼び続けなければならなかった。

 

ようやく一人の看護師さんが気づいてこちらに来てくれた。もう一人の看護師さんは車イスを持ってきてくれた。

その車イスで病室に戻り、どんな状況だったか頭を打っていないかなど確認されるも

気づいたら倒れていたので自分でもよくわからない。

 

「ここ、たんこぶできてる?腫れてるみたい」

と看護師さんが私の後頭部を確認する。

触られても痛くなかったのでそういう頭の形では…?と思うも、あれよあれよという間に頭のCTを撮ることになった。

 

CT室では技師さんが一人待ってくれていた。

真夜中のCT室はいつもとは雰囲気が違い、あの丸いところにベッドが吸い込まれていくとそのままどこか知らない世界に連れていかれるような、そんな錯覚を覚えた(技師さんは斡旋業者の設定w)。

もちろん現実にはそんな事は起こらないのだが、このまま病気じゃない私がいる違う世界に行けるならそれもいいなとそんなことを想像して少しだけわくわくしたのも事実。

 

尚、CTの結果はまったく問題なしで部屋に戻りベッドで休んだ。

時刻は午前4時。腹痛はいつの間にか治まっていた。

 

結局、この時の転倒事件は腹痛による迷走神経反射だろうということで片づけられた。

 

私は、またアレが起きたらどうしよう…

とナーバスな数日を送ったがその後は1度も起きることはなかった。

 

 

同時化学放射線療法①治療サマリ

Aug 2021 to Sep 2021


 

再発部位への抗がん剤効果がなくなり、次の手として放射線治療をすることになった。

 

私としては「これは再発じゃなくて取り残し。この膣のガンさえ消せば根治できる!」と思って(というか思い込もうとして)いたのでやっと放射線ができると意気込んでいた。

ガン封じで有名な神社に行き御百度参りもした。(体力がないせいで半分程しかできなかった)

 

一方、婦人科主治医は

ダメ元でやってみるか

というスタンスだった。

たぶん私が放射線を熱望しなければ、次も抗がん剤治療になっていたと思う。

 

婦人科の期待値の低さとは裏腹に放射線科医は初めての診察で事も投げに

「治療効果は90%ぐらいです」

と言ってのけた。

別に期待を持たせようとかそういう意図ではなく

え、当然でしょ?

というような雰囲気だった。

 

神経内分泌がんは放射線感受性が高い。

そう。だからこそ放射線をやりたかったのだ。

いつだったか感受性の話を婦人科でしたことがあるがそのときは「聞いたことない」の一言で片付けられ検討もしてくれなかった。

 

ともかく放射線科に来てはじめてこの病院で味方ができた気がした。

 

しかし放射線治療はそんなに甘くなかった。

1ヶ月半の入院期間中、何度「治療やめて帰りたい」と泣いたことか。

 

治療は平日は毎日、土日祝日はお休みというスケジュールで25回照射を行う計画になっていた。

8月のお盆明けから入院していたが、9月は祝日が多くてそのたびに退院が後ろにスライドするため祝日をうらめしく思っていたのを覚えている。

 

また、週1回、放射線の効果を上げるため抗がん剤(シスプラチン)を投与する。

IPやEPで入れる量からすると全然少ないらしい。

(でもしんどさは上回ったような)

25回照射する間に大体5〜6クール投与できる計算で、私は1回スキップしたので最終的に5クール投与となった。

 

治療要領はこのような感じ↓

 

治療前

治療計画CTをとる。お腹にサインペンのようなもので位置決めの線を書かれる。

固定具を作成する。

精度を上げるためマーカーを膣内に留置する(あんまり聞かないので普通はしないっぽい)

 

治療開始

1週間ほどで治療計画が出来上がったら治療スタート。私は全期間入院だったが通院でやる人もいる。

 

<治療の流れ>

照射1時間前

トイレに行って膀胱を空っぽにする

水を200ml飲む

※膀胱を治療計画CTと同じ状態にする

 

照射

時間になったら放射線科へ行く。

台の上に寝転び足を固定具に入れる。

技師さんが位置合わせをしたあと照射開始。

照射は5分ぐらいで、その間私のまわりを放射線が出ているであろう機械がぐるぐるまわるだけ。

よく言われるが痛くも痒くもない。

熱いとかもない。

基本的に準備を入れても10分あれば完了する。

週1でCTを撮る日があってそのときは30分ぐらいかかった。

 

一見楽な治療にも見えるかもしれないが、入院期間中は悲喜こもごもいろいろあった。

その様子を次から書いていこうと思う。

 

 

EP療法(エトポシド/シスプラチン)

Apr 2021 to Jul 2021


 

イリノテカンの下痢に耐えられず、主治医に泣きついて変更してもらったEP療法だったが耐性がついて4クールで中止となった。

 

副作用的にはIPよりは全然マシだったし、何よりこちらは1週目に3日連続投与したら3週お休みだったので月1ぐらいなら頑張ろうという気持ちで続けることができた。

 

EP療法スケジュール

Day1

シスプラチン

エトポシド

 

Day2

エトポシド

 

Day3

エトポシド

 

主な副作用

①吐き気

投与後4日〜7日目ぐらいがピーク。

投与から3日目ぐらいまではむしろステロイドのおかげで元気なのでこの間に食い溜めしておくこと推奨。まったく何も食べられないというわけではなく、いけそうなタイミングで食べて撃沈…を繰り返すうちに復活する感じ。

吐き気だけで嘔吐は一度もなし。

 

②しびれ

抗がん剤終了後に手足の指先がしびれるようになった。足のしびれの方が強く、手はそのうち治ったが足はいまだにしびれたまま。

おかげで靴はバレエシューズしか履けなくなった。パンプスはヒールがなくても硬いから無理だしスニーカーも締め付けが強くて履けない。

 

③耳鳴り

一瞬無音の世界が訪れて、次にキーンという高音が2〜3秒続くという現象がたまに起きるようになった。これも今でも継続している。

特に不都合はないのでそんなに困っていない。

 

④頭痛

これがかなりつらかった。5〜7日目頃、頭が割れんばかりに痛くなる。ロキソニン+カロナールを飲んでもなかなか効かない。ただただ耐えるしかなかった。

 

その他、エトポシドは骨髄抑制が強くでるようで一度だけ数値が足りずに抗がん剤がスキップとなった。

後日、スキップで私が落ち込んでるんじゃないかと薬剤師さんがとても心配してくれていたと聞きびっくりした。

むしろ「やらずに帰れる、ラッキー!」と喜び勇んで帰ったのだが普通は落ち込むものなんだろうか??

 

 

 

IP療法(イリノテカン/シスプラチン)

March 2021


 

結論から言うとIP療法は私には合わなかった。

そのためわずか1クールで終了となった。

 

抗がん剤の副作用というと真っ先に思いうかぶのは「吐き気」だろうか。

「吐き気」もかなりつらいのは間違いないが私にとって致命的となったのはイリノテカンの副作用である下痢。

これを続けるのは絶対に不可能だと判断し、EP療法に自分から変更を願い出た。EP療法はIPと優位差はないとされている。

(ちなみに婦人科ではEPの実績がないと言われたが最終的にカンファレンスでまぁいいでしょうと許可が出た)

 

IP療法のスケジュールは以下。

 

Day1

シスプラチン

イリノテカン

 

Day8

イリノテカン

 

Day15

イリノテカン

 

1週目入院で投与

2週目、3週目は外来で投与(初回は

2週目も入院)

4週目お休み

 

というサイクルで通常は6クール続ける。

 

初回は10日ほど入院した。

個室を希望したが空いておらず4人部屋へ。

前の病院とは何もかもが違いすぎて気持ちは落ち込む一方だった。

 

入院初日

ここでの主治医と初めて会う。

若そうに見えるがどこか掴みどころのない印象。

ここでもまた厳しいことを言われて落ち込んだ。

 

薬剤師さんが薬の説明に来てくれる。

すごい勢いでずーーーっとしゃべっていて(どこか義母を彷彿とさせる)この薬剤師さんと話すとどんなに落ち込んでいても気持ちを立て直せた。

 

入院2日目

吐き気止めを事前に飲み、お昼前頃から投与がはじまる。

はじめは吐き気どめなどが投与され1つ終わるごとに袋が付け替えられて次々と進んでいく。

抗がん剤が入るときは看護師さんが10分間側について異変が起きないか観察される。

 

イリノテカンの投与が始まり15分くらい経った頃、急に喉のあたりに込み上げるものがあり必死につばを飲み込む。お腹がゴロゴロし出し点滴を引き連れて2回ほどトイレに行った。

シスプラチン投与では何の異変も起きず眠くなって寝ていた。

 

こうしてアレルギー反応など重篤な副作用は出ず、初めての投与は無事に終了した。

 

その日の夜。

イリノテカンで感じたムカムカより強い感覚で目が覚める。そこからは右を向いても左を向いても気持ち悪くて5日間は苦しめられる。

 

だいぶ楽になったと感じるようになる頃には、もうすぐそこに次の投与日が迫っている…。

 

入院9日目

イリノテカン単剤の投与。

前回と同じく投与後すぐにムカムカがくるも頑張って耐える。ここを乗り切ったあとは吐き気はそれほどではなかった。

 

入院11日目

退院。

帰り道は桜が満開だった。

体調もそこそこよく、食欲もあったのでお気に入りのパン屋さんに寄って帰る。

しかし食べたい気持ちはあるのに食べると気持ちわるくなるというジレンマ。テーブルの上には色とりどりのおいしそうなパンたちが手をつけられることなく並んでいた。

 

深夜2時頃。

急な腹痛で目覚める。

トイレに行くと下痢。一旦落ち着き部屋に戻るもそこからは10分間隔ごとに腹痛&下痢。

トイレ前から離れられなくなり廊下で横たわる。

2時間ほどそれを繰り返すと間隔が少し長くなりだした。それでも20〜40分間隔。

出すものももう何もないはずなのにどこから何を出しているのか止まることはなかった。

身体中の水分を出し切ろうとしているかのように思えてこのときは本当に怖かった。

 

朝になり救いを求めて病院に電話すると

「近所の病院で下痢止めを出してもらって下さい

来てもらったら診るけど遠いでしょ?」

 

と言われ絶望する。

私からするとかなりの異常事態だったが、先生からするとよくある副作用の一つだったんだろう。

それでもみんな(Twitter)の病院では

心配なのですぐきてください!と受け入れてもらえてるのに…とみじめな気持ちになった。

 

がんセンターには行けない。

でもどこかで診てもらわないと。

近所の内科に事情を話して夫に連れて行ってもらった。

 

そこでは脱水を起こしていると言われ点滴をしてもらった。

抗がん剤やってるの?こんな状態だったら続けられないんじゃない??」

 

今回たまたまこうなだけで、次回は大丈夫だと根拠なく考えていた私。

 

抗がん剤が原因だから、抗がん剤やったら毎回こうなるよ」

 

そう言われて来週のイリノテカン投与日がおそろしくなったがその日はすぐにやってきた。

 

「下痢、大変だったみたいですね」

こちらをチラリと見ながら抗がん剤のオーダーを打ち込もうとする主治医。

 

「あの…まだ体調が悪いので今日は抗がん剤やめたいんですが」

 

抗がん剤をしたくない

 

そう言うのは勇気がいる。

怒られるというか嗜められるというか。

なぜか悪いことをしているような気分になる。

 

主治医は少し驚いたようだが、わかりましたと一言言ってその日の投与は免除された。

 

重積から解放されて晴れやかな気持ちでその日は帰宅。

しかし逃げ続けるわけにはいかないので、EP療法への変更を模索し始めたのだった。