Everything Went Fine

残された時間で「遺す」ブログ

転院

March 2021


 

再発を告知されても尚、転院先を決めきれずぐずぐずしていた私。

しかし期限は迫る。

追加治療は術後2ヶ月以内に行う必要があるからだ。

 

一応候補は3つに絞っていた。

 

1. Oがんセンター

⒉ Hがんセンター

3. 地元の大きめな病院

 

1はこの中で一番大きい。綺麗。かなり混雑。手術2ヶ月待ち。ドライな対応(真偽不明)をされるという複数人の書き込みを見て怖気付く。

 

2は婦人科は全国でも有数のハイボリュームセンター。建物がボロすぎる。ちょっと遠い。ほとんど口コミが見つからない。看護師さんが優しいらしい(真偽不明)

 

3は一番近くて婦人科もそこそこ大きい。一番無難か。

 

1はやはり「ドライな対応」がひっかかり、よその病院で手術した患者は受け入れない方針かもと勝手に考えて早々に諦めた。

 

2と3はなかなか決めきれなかった。

紹介状を2通用意してもらってギリギリまで悩んで決めた方に受診することにした。

 

しかし最終的に決めきれず、結局行ってみないとわからないしと紹介状が2通あるのをいいことにどちらも受診することにした。(本来はあるまじき行為…)

 

初めに行ったのは、3の地元病院。

経緯を話しながら再発疑いのところでぽろぽろ泣いてしまった。

 

通常なら放射線治療だが本当に再発しているなら化学療法(TC +Bev)になる。

検査してみましょうと細胞診をするも腫瘍自体が見つからない様子。

1週間後に郵送されてきたのは「異常なし」の検査結果だった。

 

次に2のがんセンターへ。

どんよりと暗く気持ちが塞ぎ込む感じ…

ここにいる患者さんはみんなガンなんだ…重苦しくもそれでいて少し安堵する気持ちもあった。

 

診察では一言目に

「非常に稀ながんでどれだけ予後が悪いか」

についてエビデンス付きで詳しく説明される。

 

続いて内診。

地元病院とは違い腫瘍は見つかったようだ。

細胞診にまわす。

 

いわく、

A先生だから手術できちんと取っているはず。

だからこれはおそらく再発だろう。

これが再発だろうが取り残しだろうが化学療法を行うことになる。レジメンは子宮頚がんで通常やるもの(TC)ではなく、小細胞肺がんと同じもの(IP)。

放射線エビデンスがないからやらない。

 

すべて神経内分泌がんの治療としては納得のいくものだった。

 

地元病院では放射線の治療を提示されたこと、レジメンがTCだったこと、何より内診で腫瘍が見つからず細胞診でも陰性とされたことで転院先はがんセンターしかないと思った。

 

がんセンター(婦人科)での治療はその後も寄り添うとは無縁のものだったが、正確な診断と確実な治療で間違いなく私の寿命を延ばしてくれた。

(その後、1年ぐらい通ううちに情がわいたのか割とフレンドリーになった)

 

後日。

がんセンターでも細胞診の結果は「陰性」と出たらしい。

しかし別日にとっていたPETが光っていたため再発が確定となった。

ちなみにこのとき他に転移はなかった。

私のガンはよっぽど見つかりにくいのか、地元病院で見つからなかったのも仕方ないんだろうなと今では思う。

モラルに欠ける行為だったかもしれないが、結果的に二股をかけたことによって今日まで生きて来れたと思っている。

 

「いつから入院します?早い方がいいよね?

来週からにしますか?」

 

化学療法のための入院。

ちょうど3月の卒業シーズン。上の子の卒業式があり1週間遅らせてほしいことを伝える。

 

「もちろんいいですよ。そういうことは大事ですから。ぜひ行ってあげてください」

 

快諾してくれたその言葉は

 

あなたはもう長くないんだから、治療より家族との時間を大切にしてください

 

と言っているように聞こえた。

 

早すぎる再発

<退院後2週間>

ひたすら家で静養。

しかし微熱は相変わらずで、さらに腎盂腎炎になるなどあまり回復しているようには思えなかった。

 

<退院後3週間>

病理の結果が出た。

聞きたいような聞きたくないような気持ちで病院へ。

 

腫瘍径5.5cm

リンパ転移(1/26)

断端陰性

 

術前の検査結果より悪い内容だった。

 

これを受けて治療方針は以下となる。

抗がん剤は確実にやる

放射線もやった方がいいんじゃないか(よくわからん)

 

この病院は遠いので術後は地元病院に転院するつもりでいた。が、私の地元あたりで紹介実績がある病院がなく故に情報もないという状況だったため病院としては

 

自分で良さそうなところ探してね

紹介状は書くから

あ、よそで手術した患者は受け入れないところもあるから気をつけて!

 

というスタンスだった。

 

転院先探しは遅々として進まなかった。

選択肢はたくさんあるのだが、検査結果が思った以上に悪かったのと、次なる「抗がん剤治療」に進む勇気がなかったのだ。

 

この頃気になりだした症状がある。

座るとお尻が痛い、何かが触れる気がする。

まさか…ね…

手術の後遺症だろうと必死に思い込もうとしていた。

 

<退院後1ヶ月>

1ヶ月検診で病院へ。

車のシートに座るとちょうどいい?角度で例の痛いところにあたるのでかなり不快だった。

変な体制になりながらなんとかよいポジションを探っていた。

 

診察。

まだ転院先を決めていない後ろめたさでなんとなく主治医の顔を見づらい。

内診してもらって特に異常なしと言われる。

 

よかった。

お尻の痛みはきっと気のせいなんだ。

 

vs

 

いやいや、これが気のせいなわけないだろ。

ちゃんと診てもらった方がいい。

 

せめぎ合う感情。

 

「何か気になることはありますか?」

 

診察を終わる前の最終確認。

私の口から出たのは

 

「座るとお尻が痛い気がするんです…」

 

先生は短く、えっ!?と言いバタバタと内診へ。

その時ちらっと見えた表情は今まで見たことのないような厳しいものだった。

 

無言のまま検査をすすめる先生。

器具でいつもよりいろんな方向に引っ張られる。

 

「これか………」

 

絶対にあってはいけないものが見つかってしまったらしい。

 

診察に戻ると先生はとても言いづらそうに

「1cmぐらいの腫瘤があります」

 

再発……?

まだ手術して1ヶ月しか経ってないのに…。

こんなに早く再発するなんてありえるのだろうか?

手術で取り残したとは考えられないだろうか??

取り残しを願うなんておかしな話しだがまだその方が希望が持てる気がした。

 

「手術のときはなかった」

「再発の可能性も含め、早く次の病院で診てもらった方がいい」

 

どうみても再発の状況でもあえて「可能性」とつけてくれたのは優しさなんだろうか。

 

もう死んでしまうんだ…。

帰りの車中ではずっと泣き続けた。

隣の夫はいつも通り無言だった。

 

そして退院

February 2021


 

早ければ1週間で退院する人もいる(ドヤ)

 

「入院期間が短い」というのは間違いなく腹腔鏡手術のメリットの1つだろう。

 

広汎子宮全摘術は大手術なので開腹であれば順調にいって3-4週間の入院。

それが腹腔鏡であれば1週間。

 

ちなみに私は早い人じゃなかったので術後10日目での退院となった。

また私の場合、術後1週間なんてとてもじゃないが退院できる状況になかった。

 

毎日微熱(37.8℃ぐらいをキープ)

改善しない貧血

下がらないCRP

 

そして一番問題だったのが自己導尿。

 

mimimimi365.hatenablog.com

 

途中、この排尿訓練を逃げ出したことにより習得が遅れさらに退院が延びてしまった。

退院前日「ほんとに大丈夫〜?」と先生に疑われるほどの仕上がり具合だったため、下手するともっと退院が延びていたかもしれない(帰りたすぎて押し切った)

 

そんな待ちに待った退院当日。

なぜかここ一番の体調の悪さ。

一瞬退院を延ばそうかとも考えたが、子どもたちに会いたいので強行突破した。

 

高速で2時間半。

体調はそれ以上悪化することなく、しかしよくなることもなく懐かしの我が家に到着した。

 

本当は感動の再会を果たしたかったのだが、そんな余裕はなく家に入るなりソファに倒れ込んでしまった。

 

すっかり元気になった私が帰ってくることを想定していたであろう子どもたち & 義母はそんなよれよれの私を見て一瞬驚いた表情を見せたあと慌てて毛布をかけてくれたりカバンを運んでくれたりいろいろ助けてくれた。

 

私は術後、体力が術前の半分ぐらいしか回復せず「健康な人たちが思うハンデのある人」以上に動けないことが多い。

 

私だって自分が手術するまではこんなに動けなくなるとは思っていなかったし

術後の体調なんて分からないのは健康であることの証で

つまり彼らと私の間には深くて大きな溝があり、そのギャップに気づかされるたび勝手に傷つき落ち込んでしまう。

(一言で言うと健康な人がうらやましい)

 

とはいえ、やっと帰ってこれた我が家。

義母の作ってくれたちらし寿司とお花でお祝いしてもらったあと久しぶりに子どもの隣りでぐっすり眠った。

 

 

排尿障害

January 2021


 

手術で失ったものは子宮だけではなかった。

あの日以来、私は「オシッコ」がでない。 

生きるために「自己導尿」という手技を覚え、カテーテルを使用して強制的に排尿している。

 

そう聞くと日常生活に支障が出るような大変な不便を強いられていると思われるかもしれないが実際はそうでもない。

常にカテーテルを持ち歩かないといけないわずらわしさはあるがそれ以外はどこにだって行けるし何だってできる。

見た目も特に変わったところはない。

 

しかし今でこそ「自己導尿ですが何か?」的なスタンスでいられるがやはりそれを受け入れるには相応の時間を要した。

 

---

術後4日目。

 

バルーンが抜ける。

術後はじめてのトイレ。

これまで通りしているつもりなのだが何の反応もない私の膀胱。

 

しかし事前情報としてこうなる可能性を知っていた私は特に慌てることもなくまぁそのうち出るようになるだろうと楽観的に構えていた。

看護師さんも「ま、そうだよね」程度の反応を示したあとベッドに戻りテキパキと導尿をしてくれた。

 

このあとも

 

トイレ→出ない→ナースコール→導尿

 

のルーチンを繰り返したが、この日はとうとう1滴も出ることはなかった。

 

翌日。

「今日から自己導尿の練習をしましょー」

と看護師さん。

 

え、もう?

みんな(Twitter)もう少し粘ってるけどな…。

見切りつけるの早くない??

 

そうは思ったが、病院によってやり方が違うのだろうと自分を納得させ自己導尿の練習を始めることにした。

 

自己導尿にはいくつかの流派があって大きくは以下の4つに分類される(たぶん)

 

鏡使う派 or 使わない派

座ってやる派 or 立つ派

 

この病院では

鏡使わない & 座る

がスタンダードなやり方らしくそれに則って手順を教わる。

 

手順といっても大したことなくて

 

手を洗う

カテーテルを取り出し、潤滑ゼリーを塗る

尿道カテーテル挿す

 

程度のものだった。

 

え、尿道ってどこ…?

最後のところ端折りすぎじゃない??

 

という意見が大半だと思うが

 

「感覚で覚えてください」

 

というムチャ振りで無情にもその声は切り捨てられるのだった…。

 

そんな感じなので1日や2日でできるような代物ではなくだんだん諦めかけてきた頃

 

そもそも自分で出せればこんなことしなくていいじゃん!

 

ということに思い至りその方向で頑張ることにした。しかし何日たっても自尿は出ないまま。

さすがに焦って先生の指示を仰ぐ。

 

すると先生は思ってもみなかったことをサラッと言った。

 

「あなたの場合は出るようになりませんよ。

神経とってるので。」

 

!!!

 

このあと私はメンタル崩壊してしまい、荒れに荒れた。

 

夫やSNSにぶち撒けても返ってくるのは「絶対よくなるよ」に代表される意味のない励ましだけ。

(すみません、今は感謝しています)

 

緩和ケアナースに

「手術なんてしなきゃよかったぁぁー

手術前に戻りたいぃぃー」

と泣き喚いても何の解決にもならないばかりか自分のモンペ(モンスター・ペイシェント)ぶりを露呈するだけ。

 

何もする気がなくなって自己導尿の練習を投げ出したりもした。

でもそれで困るのは自分。

できるようにならないと退院もできない。

どんなにやりきれなくても失ったものは戻らないし、これから生きていくためには嫌でも自己導尿やるしかないんだ

 

となんかスポ根風味な経緯で、それからは(前よりは)真面目に練習に取り組むようになった。

うまくできたり失敗したり一進一退を繰り返しながらではあったが、練習の甲斐あってなんとか退院許可が降りたのだった。

 

ちなみに退院後もフル自己導尿の日々を送っていたが、謎に術後1年頃から急に少しずつ少しずつ自尿が出るようになってきた。

術後2年の今では1日の導尿回数が5→3回程度には減りゆっくりではあるが膀胱機能が回復してきているのを感じる。

 

なのでもし、同じように排尿障害で落ち込んでいる人がいたらどうか希望を持ってほしい。

年単位ではあるけど、きっとよくなります。

 

あなたの膀胱はちゃんと頑張っている!

 

歩行訓練

January 2021


 

<術後1日目>

手術翌日から歩かされるらしいと聞いていた私は病棟に戻った時からいつそれを切り出されるんだろうとびくびくしていた。

そんな時

 

明日から歩く練習しましょうねー

 

と明るく言う看護師さんに心底ホッとした。

やっと寝返りが打てるようになったレベルでまったく歩ける気がしない。

 

<術後2日目>

相変わらず歩ける気はしないが、ベッドから降りようと試みる。

ベッドの上で身体をまっすぐに立てようとしたとたん急にふらつき練習は中止。

術後貧血が改善しなくてこの頃はヘモグロビンが5台だった。

 

<術後3日目>

硬膜外麻酔を抜きましょうと言われ断固拒否。

明日まで待ってくださいぃぃと泣きつく。

 

さすがに今日は歩かないとダメだろうと点滴棒に全体重をかけて立ち上がる。

立てた!けどなんかお腹が重い。

そこからヨロヨロと点滴棒につかまりながら部屋の中を3往復ぐらいする。

看護師さんはすごいすごい!とほめてくれたが、あぶないからと点滴棒禁止令が出た。うぅぅ…。

 

<術後4日目>

硬膜外麻酔を抜きますねの宣告にまたも抵抗するも「これ、もう空っぽだよ」

 

知らぬ間に麻酔なしで過ごしていたことを知りおとなしく抜いてもらう。

同時にバルーンも抜いてもらって身軽に。

 

自力でトイレに行かなきゃいけないのでそれが歩く練習になり一石二鳥?だった。ちなみにトイレは部屋の中にあるので大した距離ではない。

みんな(Twitter)、3,000歩とか歩いてるらしく尊敬する。

 

<術後6日目>

病室お引っ越し。

新しい病棟がオープンし、婦人科病棟はまるごとそっちに引っ越すことになっていた。

結構距離があるので歩いていける自信がなく車イスで連れて行ってもらうことにした。

え、まだ歩けないの?という看護師さんからの視線を感じた気がする。

 

進歩したのが、新しい病棟に来てからは部屋を出てフロアを周回するようになった。

ちょくちょくA先生が部屋に来てくれてどれぐらい歩けるようになったか確認されるのがプレッシャーになっていた(もちろん盛って申告)

 

<術後7〜10日目>

フロアぐるぐるから遠出作戦に変更。

引越し前の建物に行ったり院内のローソンに行ったり。

 

こうしてゆるく歩行訓練をしているうちに退院の日がやってきた。

 

ICU→一般病棟へ

January 2021


 

ICUで一晩過ごし、病棟に戻れたのは翌日お昼頃だった。

病棟からお迎えがきたら部屋に戻れるという方式で、私は最後まで残っていた…。

まわりがぞくぞくと帰って行く中、ポツンと一人残された私はふと保育園のお迎えで子どもをいつも最後の一人にしていたことを思い出し反省した。

 

ようやくお迎えが来てストレッチャーで病室へ。

この病院は全室個室。協調性が欠落している私にとっては最高の環境だった。

 

食事は初めから常食が出た。消化器を切ったわけじゃないのでお粥とかじゃなくて大丈夫らしい。

とはいえこのときは食欲がなく少ししか食べれなかった気がする。

ちなみに病院食はおいしい。当時はこのありがたみをわかっていなかったけど今ならわかる。こんなおいしい病食はない!(切実)

 

そして地味に嫌なイベント。

朝夕2回の血栓予防の注射。

5日間くらい連続で打ち続ける。

最初はそれほどでもなかったけどそのうち注射の時間が近づくと憂鬱な気分になっていた。

 

身体はまだまだ痛むけど、手術を乗り切った解放感と身体からもうガンはなくなったんだという喜びでいっぱいだったこの頃。

 

あとはよくなるだけ!

そう信じてこのあとのリハビリをがんばった。

 

手術!!

January 2021


 

2021. 1. 26

広汎子宮全摘術

両側付属器切除術

リンパ節郭清

 

婦人科で一番大きな手術。

もう2度と手術はしないと誓ったこの手術。

 

前日の麻酔科医の話しでは術後も麻酔が効いてひどい痛みが出るようなことはないというはずだった。

が、実際は声もでないほどの激痛で目を覚まし、ICUで落ち着くまでの数時間は地獄を味わった。

 

目覚めて真っ先にしたのは時間の確認。

早ければ3時間とかで終わるよと言われていたが実際は5時間程かかったみたいだ。しかし通常は7〜8時間かかるらしいのでこれでもかなり早く終わった方。

 

ICUというところがどういうところか分かっていなかったが、要はその日手術した患者を雑魚寝スタイルで集め(カーテンで仕切られている)集中管理する部屋と思えばよいのかな。

 

私の両隣はおじいさんとおばあさんで2人とも余裕そうな雰囲気の中、私だけがうぅぅ…と声にならない声でうめいていた。

途中、お隣のどちらかの様子から痛み止めを入れてもらえることを知り秒でナースコール。

 

そしたら無慈悲にも

さっき入れたばっかりだからあと30分待ってね

 

絶望…

というか既に入れていてこれか…

 

見える範囲に時計がなかったので、その後何度かナースコールを押し、あと何分ですか!!と必死の形相で聞く形になってしまった。

 

そしてすっかり忘れていたが、ICUでは夫と面会できることになっていた。しかし私は痛みだけでなくガタガタ震えるレベルの高熱もあったため正直言って面会どころではなかった。

 

なので看護師さんから

夫さんと会われますか?

しんどかったらもう少しあとにしますか?

 

と聞かれるたびに、あとにします…と弱々しく繰り返していたのだ。

しかしそれが結構頻繁に来るようになりこれは会わないと永遠に終われないんだなと理解し夫を呼んでもらった。

 

ハァ、ハァ、ハァッ…

いたい、いたい、いたいっっ

 

としか言わない私を見て

夫は少し涙ぐみながら

 

がんばったな!

先生が全部取りきれたって言ってたから!

大丈夫だから!!

 

と言ってすぐに帰って行った。

からしたら数時間前見送った元気な私が今やこんな瀕死の状態なのを見て信じられない気持ちだったのかもしれない。

私が面会を拒絶している間、夫は何かあったんじゃないかと気が気じゃなかったらしい(ごめん)。お留守番中の義母や子どもたちも夫からの連絡を待っていたようでみんなに心配かけてしまった。

 

そうこうしているうちに、痛み止めが効いてきたのか肩で息をするほどの激烈な痛みは治まってきた。

隣のおばあさんがしょっちゅうナースコールを押しては何度も同じようなことを言っているのをぼんやり聞いていた。

 

私のところにも看護師さんは定期的に様子を見に来てくれ、口をすすがせてくれたり、少し眠りますか?と眠れる薬を入れてくれたりした。

 

そんな風にして激動の1日が終わった。